Wow:0708ynhkgz:guide
出典: Tariki
ガイドの喬さん
今回のツアーは、超大手旅行代理店のカスタムメイドのツアーであった。
ガイドさんは、日本からついていった総ガイドの中村さんのほか、現地ガイドとして雲南省中を案内してくれた喬さん・孫さん、それに広州やシャングリラはさらに地元ガイドさんがついた。ガイドさんの下請けの下請け、みたいであるが、こちらとしても現地に詳しくてフレキシブルにいろいろなことに対応できるガイドさんがそのときどきに応じてついてくれるというのは安心できるものである。さすが超大手旅行代理店の豪華ツアーだけあるな、と思った。
中でも現地ガイドの喬さんは、私のバスの担当であり、6日間一緒だったこともあるが、なかなか有能で、かつ良い人物であった。日本語も流暢な上、学習する努力も惜しまない。6日間で指摘されて(なにしろ先生根性のあるひとが多い集団だ)喋りが改善された点もあり、現地のものの日本語名を何というか知っているひとが教えてあげるとすかさずメモをとる。その上日本人のかなりのわがままにも我慢してつきあってくれ、本当に日本文化を理解した上で日本人相手の仕事をしていると思った。その彼はまだ日本を訪れたことはない。
彼はエリートである。日本の超大手旅行代理店の支社(提携観光会社)のスタッフであることもそうだが、昆明で家を買ったそうだ。黒龍江省、中国の東北地方の出身であり漢民族だが、昆明で大理(大理石で有名だ)出身のイ族の奥さんと出会い、結婚した。その彼が貧乏暮らしをしていたときに(月給6、700元 = 10000日本円程度というから麗江のホテルのウェイトレスのおねえちゃんとそうかわらない)、彼を信じてついてきてくれたという奥さんである。
また彼は愛国者である。愛国、というより、昆明を愛していて、昆明のよいところ・文化や特産物の説明などを、こちらが興味を持つように的確にしてくれる。もちろん彼は優秀なガイドであり、お土産として購入して地元にお金を落としていってくれるように商売するわけだが、それ以上にやはり昆明の良い想い出を持ち帰ってほしい、また来て欲しいという熱意がベースにある。大半のひとには購入するものもあるはずのない、昆明の花市場 (昆明は花で有名である) に連れて行ってくれた。
原住民族の解説にも熱がこもっており、学校の先生のように「はい石林近辺は何族でしたか? そうですね、イ族ですね」などと生徒である我々の頭に残るように前の日の復習も忘れない(笑)。
彼が黒竜江から昆明に出てきて奥さんと出会うくだりは、最終日に別れ際に彼自身からしてくれたものである。彼が一生懸命働いてアメリカン・ドリームならぬチャイニーズ・ドリームを果たした、というストーリーは、微笑ましくも羨ましかったが、きいていておやっと思ったのが、「がんばって働き家族を幸せにし国のためになる」というくだりである。
もちろん、資本主義国家の我々と社会主義国家の喬さんとの間には、お互い了解のもとの壁がある。資本主義国家ではひとは自分の幸せのために働き、社会主義国家ではお国のために働く。我々からみて中国人がお国のために働くといえば、ああやっぱり、という感じであり、中国人も資本主義国家の我々が自分の幸せな人生のために働くといえば、しょうがねーな、と感じるであろう。ひとやモノだけでなく情報の行き来も自由な現在、そんなことで相手の(国家の)主義に目くじら立てるわけがない。
だが、喬さんはこれまでも書いたように、良い意味で国家に奉仕している。地元を愛し、他の地方から来たひとにも喜んでお金を使ってもらうことで他の地方の人に幸せを、地元に利益を与えている。『共産主義になると働かなくても喰えるから働かなくなる』というのの裏をいく、良い共産主義人である。中国が喬さんのようなひとばかりならば、着色きくらげもダンボール入り肉まんもなかったはずだ。
ところが自由主義国家に属する我々もいま、『社会全体の幸せのため』働くことが要求されている。いうまでもなく、右肩上がり経済の幻想が破綻した現在、追及すべきは利潤ではなく人類全体の幸福だということに気づいた。私の仕事である工学部の教育でも、卒業要件として『ひとの役に立つ技術を身につけたか』ということを問うのが普通になってきている。私企業が利潤を追求するあまり不正直な仕事をし、事故の隠蔽や偽装を行なって、社会的責任を取らされている(結果的に利潤もすべて吹き飛んでしまう)のは、最近よく耳にするところである。
そう考えると、喬さんのいう『お国のため』と、我々が目指すべき『人類全体の幸せのため』というのは、実はそれほど変わらないのではないだろうか。
日本では『愛国』というと右寄りだとかすぐいわれる。『政府 vs. われわれ』『国の責任』『政治は信用できない』などとすぐ口走るが、国は国民の集合体である。代表者である政府・政治家を選んでいるのも『われわれ』の側の責任である。国を愛せないということは、自分を愛していないということである。自国のよさも悪いところを改善する努力もすべて放棄して『自分探し』とやらをしてもムダだ。おそらく幸せは自分の日々の仕事場や、投票所の小学校にあるのだ。
もう少し日本人は愛国者になってもよいのではないか。喬さんが平気で「お国のため」を口にしたのをきいてちょっと気恥ずかしかったのは、その陳腐な語感だけが理由ではない。
