Ev:ichiban

出典: Tariki

映画 いちばんきれいな水 =

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ポートレート写真を撮るとき、一番重要なのは構図でもレンズでも、ましてフィルムや照明でもなく、美しいモデルであることは、ポートレート写真を撮る者ならば、誰でも暗黙に了解していることだと思う。まあそれを言っちゃおしまいなので、「個性がきらめく瞬間を」とか「表情が」とかカメラマンは格好つけるのであるが。

劇場で公開される映画も同じだと思う。そもそも、DVDなどが普及したきょう日、劇場までわざわざ 足を運んで映画を観るのは、ご家庭では真似ができない美しい色、大画面、音響といったものを 体感したいからである。映像という側面では美しいことは最低要件だ。美しいといったってキレイキレイでなくたってよいのだ、でろでろにおどろおどろしい闇、高速で敵戦艦中をかいくぐる宇宙艇、などでもよい。

だから若い女の子が主役の映画の場合、これはもう美人に限る。どんなによく練られたプロットだろうと、感動させる状況設定だろうと、主人公がブスではまず、最低満たすべき要件を満たしていないのだ。言い訳しておくが、これは私が差別主義者だからなのではなく、歴史に残る絵画 (映画はまだ歴史が浅いからダメだが、オードリ・ヘップバーンの例は誰でも思い起こすだろう) の主題が、ブスであったことなど一度もない。

主演の加藤ローサは、確か2004年の前期のNHKテレビイタリア語講座を観ていたとき、生徒役として登場していた。美しいな、と思った。絶世の美女、というやつだと思った。しかしバタ(いやオリーブ油か?)臭い顔でばりばりのカタカナイタリア語を喋り、演技は素人のパンツェッタ・ジローラモ(彼もこの番組で有名になったらしい)に注意されるくらいイモであった。美人なのに立つときは拳3つ分脚を開いた、だらしないO脚立ちであった。それがまた中性的であり、グイド・レニが描く天使(ちなみに♂のようであった。

この手の女の子は、歳を取ってしわが増えないうちに良い映画に出演させなければ歴史的な損失である。ブスを大作に出演させる映画制作者も犯罪的だが、美人を放り投げておく制作者はもっと犯罪である。早くハリウッド映画にでも出ればいいのに、と思った。

本作がハリウッド映画ほど多くの人の目に触れ、歴史的に残るチャンスが大きいかというと疑問だが、まあ美しく撮れているのでよしとしたい。まあ美しいというのは、主題となる水の美術、どこかの日の2000年代初頭の都会でもなく田舎でもない住宅街を思わせる町並みなど、映画全般に及第点である。

ストーリもまあまあである。単純なストーリで、これは画を観る映画だと割り切って行った割には没入できてしまった(笑)。ただしリアリティの点では不満が残る。以下spoiler注意。

まず配役がこれでよいのか、ということである。両親はどうみても30代後半~40代前半の夫婦(実年齢でも父役39歳、母役41歳らしい)、学生結婚で苦労して産んだ子が8歳のときから11年間寝たきりの難病、という苦労を負っている顔にみえない。これは演技の問題ではなく(実際よい俳優である)、単純にそういう顔(見かけ年齢)の役者を配してはいけない、という問題である。前述の、ブスは配してはいけない、と同じことである。妹役も、もっと『めがねを掛けるとメガネザル、だけど外すとはっとする美人』という子はいたと思う。配役のリアリティで成功しているのは、愛(ローサの配役)の子供時代で、これほど大人時代と子供時代に似ている女優を配した映画はあっただろうか、と思えるくらい似ている。

また、クライマックスの後に説明的な画がたらたら続いて盛り下げるのも良くない。ひとは身代わりになんかなれない、というせっかくの主題も登場人物に言葉で説明させるし。私が監督なら、身代わりにしようとしてごめんね、と愛本人に直接言わせるし、叔母が身代わりになって愛が起きたのに、叔母が助かってまた愛が眠り続ける、という描写をもって映画をfinにしてしまいたい。

ともあれ、加藤ローサを鑑賞しにいったにしてはまあまあだったので☆3つ。

ローサのO脚立ちは直っていなかったが、演技はまあまあであった。やはり美人は目で演技するのがよい。